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沖縄県高齢協設立20周年回顧録

生活協同組合・沖縄県高齢者協同組合
副理事長 竹森 鋼
【1990年〜5年 準備期間】
私自身は沖縄に係わりをもったのは、1990年からです。1990年の8月に一家をあげて引っ越し
しまして、正式には11月からだったはずですが、そこから沖縄の関わり合いが深まる訳ですね。
当初、私が労協センター事業団に入ってすぐでした。沖縄では沖縄協同病院の清掃の仕事しか
なかたんですね。
そこから始まりまして約一年後に、県生協連の宮城専務がコープおきなわの常務しておられる頃に
何回も何回もかよってですね、1991年11月からコープおきなわの仕事が始まりました。
その時は1,200万ぐらいの事業高しかなかったんですけども、コープおきなわの仕事が始まる
ことにより一億を超える仕事となった。
そこが母体となって高齢者協同組合をつくりあげることになっていく。
その頃、高齢者協同組合聞き慣れない言葉を聞いて、1992年だったと思います。京都で連合会
の会議があって初めて高齢者協同組合ということを聞きました。
ただ私自身は高齢者協同組合がなにをしていくのか全くわからなくて、とにかく先ほど挨拶された
連合会の永戸理事長が「沖縄は日本一の長寿県である。
その長寿県にふさわしい高齢者協同組合を作らなくちゃいけない、だからおまえが一番早く作れ」>
と当時言われまして、プレッシャーを相当かけられたことをおぼえ賛同をています。
それから1993年だったと思います。自治体訪問行動をするわけです。
第一回目は何もわからずにただ「高齢者に仕事を」の一点だけでした全く相手にされませんでした。
そこで今度は首長に会おうと言うことでアポイメントをとり当時の32市町村の首長と面談し高齢協
の説明(大法螺]し得て設立準備会というのを作りました。
この準備会の組織はですね、亡くなられた元市会議員の古波蔵保吉さんという方がおられて、
その古波蔵保吉さんとの出会いが、高齢協を作った一つの要因だと思います。それは最初に古波蔵
さんと面会するときですね、じゃ、10時に会いましょうと言われたから、10時に何処と言われて
あそこは確か居酒屋で朝10時には開いていないのですよと言ったら、何を言うか夜の10時だよと
言われて夜の10時に古波蔵さんと会ったのがきっかけでした。それから年金者組合の方々とか
様々な、いわゆる革新系と言われる方々と会うようになりました。
なんか高齢者協同組合と考えるとちょっと違うな〜と思いながらも全然親戚もいない知り合いもい
ない沖縄ですからそこを突破口に開いてやっていけなくちゃいけないということを痛感させるわけ
ですよね。
そこから、第2の要因に、初めて沖縄入りしたときに台風に遭ったんです。三日間ホテルに缶詰に
されるという時があってですね。何もすることがないんですホテルで。外は台風で殆どバスも通って
ないし、何もないと言う事ですから。その時に連合会・永戸理事長の学生時代の運動やっていた人で
沖縄に知り合いがいるとその人に会ったらどうかと話しがで来て初めて訪れたのが今久茂地にある
「なかむら家」という居酒屋、その居酒屋に初めて行って、その時の永戸さんの感はすごいもんで、
多分ここがいろんな活動の起点になるはずだからおまえただ通えと言われたんです。
どっちみちだまっていたらどこかで飲むだろう、飲むならそこへかよえ、と言われて私も「月月火
水木金金」ぐらい「なかむら家」通いが始まったんですね。ところがここがまたすごく苦労するんです。
なんで苦労するのかというと、「なかむら家」というのは入ったら長いカウンターがあって、一番端
から五番までが常連しか座れないんです、常連しか。
私は「月月火水木金金」通ったんですよ。普通常連じゃないですか。
半年たったら、そこで店長していた人が鋼さんもういいですよ、こっちに座ってくださいと、座ったら
大将が来てお前十年早いといいつつ一番端にもっていかれたんです。

私自身それから一年半ですよ、一年半もかかって、真栄里国男さんというラジオ沖縄のニュース
センター長をやっておられた方が来て、「竹ちゃん」もういいと言って、常連の席に座らせてくれ
たんですね。これほど涙がにじみ出るほどうれしかったことはなかったですね。
やっと認められたと思ったらそれからがすごいんです。その「なかむら家」というのは、
マスコミ関係、いわゆる琉球新報、沖縄タイムス、琉球放送、沖縄テレビの幹部の方がいっぱい
来ていたんです。それと県庁や市役所の部長、課長さんたちが集まっていたんです。
大将(中村一成氏)から明日から名刺を20枚持って来いと言われて二十枚程持って行きました。
そこでばんばん紹介してくれるわけなんです。一番良かったのはマスコミの人たちですね。

私ども高齢協を作ると言ったときに、1993年から地域懇談会を開こうということで沖縄本島だけで
130か所ぐらいやりました。あと宮古で一回それと石垣でも一回やりました。
この130回の地域懇談会、大きいのになると、那覇市で開いたときに180名ぐらいNTT会館でやった
こともあります。そこにはマスコミの報道の力がありました、私自身NHKテレビに出演したこと
もありましたしラジオ沖縄には取材も含め多数出演させていただきました。ある人に言わせる
と高齢協は広告費を3億円ぐらい使っているといわれたこともありました。それだけマスコミの
皆さんにはお世話になりました。ありがたいものです。
ある時は当時恩納村の村長さんがこれはいいと、僕も高齢協の組合員になろうとすぐその場で
組合員になって頂いて恩納村で地域懇談会やろうといって体育会館でやるけど、村長さんの肝いりで
借りました。
これはすごいぞとチラシ12,000枚ぐらいだったかな、持って行きました。恩納村に全部配る
からといって。しかし、全然チラシは配れてなくて私どもが行ったときは4人ぐらいしかきてい
なかった。
広い会場の片隅の方に机を並べてやった懇談会もありました。それから平良先生の出身地の大宜味村
に行って、高齢者協同組合の地域懇談会を開催した時に50人ぐらい来られたんですね。流石ですね、
さすがに長寿日本一、世界一の村ですね。高齢者の方々が沢山来られました。
そこでお前たち高齢者協同組合は何をやるのかといわれました。当時、具体的方針は何も無いわけ
です。どういう事業をやるか、あ〜とか、う〜とか、あっとひらめいたら、いやまず農業をやりたい、
土を扱う仕事をやりたいんです。
と言ったら、俺たちはずっと土とたたかってきた、これ以上まだ土とたたかえというのかお前は、
叱られました。
那覇で懇談会やった時にとどういう仕事をやりたいですかねとアンケートやると、そうすると土と
接した仕事をしたいと、というのが那覇の希望なんですね。それを言ったら大宜味村は違うんですね、
大宜味村は。芭蕉布があるでしょう。
私の記憶では80歳というのは、芭蕉を倒す仕事しかさせられない。そして90歳になると、それを
繊維にする仕事、芭蕉布を編むのは100歳過ぎてからだというのを聞いて、高齢者にとって働くこと
そのものが福祉なのだと実感させられました。
土を扱う仕事というのは毎日自分たちで野菜を作ってそれを食っている。だから長寿なんだという
ふうにいっておられる方も居りました。
ノーベル経済学者アマルテアセン氏は高齢者にとって働くことこそ福祉なりと言っておられた<共感で
きました。そういう感じで県内130回に及ぶ地域懇談会を開いてきました。ことにそのなかで様々な
高齢者の意見とかを開きながらやりました。

1995年9月3日設立総会を那覇市の市民会館でやったんですね。中ホール300人入る。
もうとてもじゃないが、失敗だと私は思っていました。全国から理事長はじめ様々な人が
いっぱいこられて赤っ恥かくなと思って、私は会場に入りませんでした。
家族だけいかして、なかなかいかなかった。
そこへ佐藤君(現専務理事)がよってきて、会場は満杯になっていますよと、おう!と
いって、でかい顔して会場に行った覚えがあります。
それが1995年9月3日の設立総会。
そこで全国3番目です。
先ほど理事長が言われましたようにセンター事業団そのものが高齢者協同組合を創ったのが最初
です。それから三重県で連合会初代理事長の中西五洲さんが創られて、で、沖縄が9月に創って、
そこで内緒話がありますけど、私の親父がいて、その親父が非常に私に対抗心というか、敵意むき出し
なんですね、おまえに負けてたまるか、といって福岡の高齢者協同組合を創る準備がはじまる。
私の方が一足早かったもんですから、これだけは悔しくてたまらんといって、ずっと言っていたのを
私は覚えているんですけど。それから福岡でも出来、愛知でも出来、という感じになりました。
そこから全国で高齢者協同組合が始まりますけども、ところがなんの仕事をしたらいいのか本当に
分かりませんでした。
その当時、1995年ですからそろそろ介護保険事業が始まるぞと、ちらちら話が来ていました。
その時にワンパワーが絶対に不足する、ヘルパー講座を開こうということで、連合会から提唱されて、
ま、これだなぁと言う事で、設立当時はあまり気にはしていなかったですけど その当時のメンバーが
凄いんです。
理事長が琉大医学部教授の武居先生、副理事長に琉大保健学部教授の平良先生、それから泉崎病院院長
平田先生が副理事長で、この先生方にヘルパー講座を開きたいどうしたらいいでしょうか相談したら、
あらゆる人、講師を紹介してくれたんです。ヘルパー講座のカリキュラムを作って、それを当時の
那覇市の社協の会長だった伊波さんに持って行きました。

当時、先ほど出た古波蔵保吉さんに紹介されて私も模合に参加していましてそこに伊波さんも来て
いましてね、顔見知りだったものですから、こういうメンバーの講師陣でヘルパー講座を開きたいん
ですがどうでしょうかといったら、こういう講師陣をよく組織できたね、どうしてできたのといわれる
くらいの講師陣だったんです。
それで3級ヘルパー講座をやったんです。
その修了式が面白くて、修了式には琉大医学部の「がじゅまる会館」という会場でやったんです。
琉大といったら沖縄でいったら最高学部のところだし、そこに行けるということで、30人中男性は
1人で29人が女性だったんです。多分写真残っていると思うんです。
みんなドレスを着てき
たんですよ。仮想行列さながらでした。
それくらいドレスでめかしこんできて、修了式をやったのを覚えているんですね。2回目もやりました。
2回目は修了式は琉大でやらなくて別のところでやったら不満が出ました。
どうして私たちは琉大でやらないのかと、会場がありませんでしたといういい方をして、その時は
2回やっただけですね。
その後2000年から介護保険事業が始まり2005年まで講座を複数回実施し1200名の2級ヘルパーを要
請しました。残念ながら事業には結びつきませんでした。
次に、何の事業を遣ったらいいか思いつかなくて、ある時に食で困っている人がいる話を聞いて、
これだ!と思って1997年に宅配事業をやろう、那覇市でやろうと。
でも、宅配事業を遣ろうという時にお金がないんです。設立したばかりで、事業も何もやって
ないし、組合員の出資金は130万円ぐらいあっただけです。
どうするかということになって、その当時、センター事業団が全国の高齢協を推進するという
ことで、高齢協の一事業に付き500万円まで利息なしで貸し出すことを決めたんですね。

で、早速そのことで500万円借りました。500万円借りて、その当時、理事長の武居洋先生に頼んで
100万円出してくれと、私も100万円出します。で、そうした話をしたら、理事の宮里朝光先生が僕も
10万円出しますといって出してくれて、そういう意味でのお金が集まって事業を行うことが出来ました。
「配彩那覇」は設備費だけで750万円かかりました。そこが始めなんですね。
当初250円でやったんですね。それで私、(労協センター事業団)本部にて非難囂々、理事会では
専務が、あなたは論理がないとかかんとか言われて、で、その当時顧問をしておられた、連合会の
三役かやっておられた思う田村さんと、現在、副理事長で九州本部長の、その当時、専務をしておら
れた奥治さん二人が来たんです。
私と武居洋理事長と平良一彦副理事長と平田亮一副理事長と4人で面談したんです。徹底して糾弾
されたのは、250円でやるおまえ経営者じゃない!なにごとか、お叱りを受けて、それにも耐えて2ヶ月間
耐えに耐えてきました。
その当時ね、厚生労働省の補助金が一食あたり400円出ると分かっていたんです。それがただ単に
我々がやってきたものがもらえると思っていたら、それが全然違っていて、自治体に補助金を出して
自治体が補助金を我々に助成する制度だったんですね。

その当時は材料費しか利用者から取ってはいかないというふうになって、材料費は250円だよなぁ、
これで耐えなくちゃいけない何か月間。
で、250円決めたんですよ。
ところが、経営的に全然だめですよね、赤字になることはわかっている。
これがまた面白いもので、250円でやるということでマスコミの方々が取材に来てくれたんですよね。
取材に来て250円でやると言ったら、マスコミがどんどん宣伝してくれたんです。
1997年2月からはじめて、そうしたら当初は10〜20食から始まると良いかなと思ったら300世帯
ぐらいから連絡があったんです。弁当がほしい、ま、これで利潤あるなと思ったんですけど、何時まで
も250円で続けるわけにはいけません。
そこで、それはお試し価格だとうそばっかりいって、4月から400円でやりますといって400円に
上げたらどんと半分くらいに減るかと思ったら殆ど減らなかったんですよ。98%ぐらいだったとおも
います。
そこでやっぱりこの事業というのは本当に住民が必要としているんだと私たちは考えました。
そこから那覇配彩がずっとはじまるんですね。

その時、掲げたのが「配彩三原則」です。
1、安否確認を必ず行う。
2、利用者の健康を考えたカロリー計算(病理食を含む)
3、地元の安心安全な食材をつかう。
もう一つは「福祉懇談会」というのを行っていたんです。
各市町村から福祉部長を呼んで、いろんな懇談会をやってました。
そこに名護市の福祉部長さんがおられて、これはすごいというふうに言われて「配彩那覇」に2〜3
回程見学にこられて、名護市で絶対にやってくれと言われて、今の副市長の親川さんが福祉課長のころ、
やりますけど自治体からお金出してもらわないとうちはもうできませんよ、お金はありません。
そういう話しをして、なんかないかと言うことで・・・・。
その当時、厚生労働省の生活支援事業で配食事業に対して調理器具を305万円まで補助する。
それから配食しなければいけないから軽自動車を一台補助するという制度があったんですね。
これを全面的に出せと言うことで、これもまた市がその気持ちになって企画書をかいてそれを
県に出して、県から厚生労働省へ出すことになっていて、勿論、名護市が出す企画書は私たちが書
きました。
佐藤君(現専務理事)が中心になって書いて出したんですけど、その企画書を出して、なしの>
上げつぶてで、何にもならないですね。で、工事は着々と始めようとしている。場所も福祉部長が
みつけてくれて、ここでやったらどうか、家賃が30万といっているところ半額にするから
遣らないかというところまで話しは進んだ。
ところが名護市は企画書を出したのですが、

県がいっさい厚労省に上げてなかった8おかしいと言う事で連合会を通じて、今の専務の
古村専務を通じて厚労省に直接行きました。上がってないと厚労省に。ついでに県に問
い合わせてくれませんかと、県に問い合わせた途端一週間後、助成金が下りました。
300万の調理器具一式それに車一台。それを高齢協が借りる(無料)ということではじめました。
2000年6月「配彩やんばる」開所です。
その内に今度は、恩納村がぜひうちでやって欲しいと・・・。
「配彩やんばる」では、排水溝を造るのに250万ぐらい掛かったんです。
実は、それは何とか自己資金でやって、今度は恩納村、施設がなければやれませんと言い、
全部恩納村がやってくれればやりますと言ったら、その生活支援事業の助成金と、自衛隊と基地の何
とかという費用が出て800万ですね、その費用を掛けて全部造くれたんです村が。費用は(高齢協は)一切
使っていない。
そう言う事で、第3事業が出来て、基本的に私たちが自治体の都合でなく作ったのが「配彩ナビィー」
です。最初、大ボラ吹いて、全島くまなく高齢協の弁当が配達している理想があったんですけど、
より現実味を含んできたのが4カ所目の「配彩あわせ」を開所してからです。
念願だった中部地区に配食事業を作らなければいけない。
沖縄で2番目の人口が多い沖縄市で創らなければといって作った。これは意図的に高齢協が総力
を挙げて作ろうとしています。これがまた赤字の原因になる訳ですね。大嶺さん(現配彩
那覇所長)から云われるとそう言う事ばっかりやっているから、私達の生活も良くならないと
言われたりするんですけど、ま、それもようやく赤字解消もできて今年度から売り上げがアップして
いる状況です。
あと今後の動向としては、本当に沖縄本島内の全世帯に私たち高齢協の力が澄み渡るように、
新たに南部地区に1か所と北部地区(国頭、東、大宜味)をカバーできるところに1か所「配彩やん
ばる」の出張所みたいなのを作ってやると、まさに沖縄本島内全地域に高齢協の配食が行き渡ること
になる。
ただ、これからの課題というのは、それで終わるわけにはいかない。多分、今、高齢協は1,500
世帯と結びついていると思うんです。これは大変な力であって、ただ単に配食するというわけではない。
私たちは配食するにあたって三原則を掲げました。第1の原則は必ず安否確認をするということ。
これをやらないと私たちはやっている意味がない。先程、話が出ましたけどさまざまな事例が出てきました。

ある時弁当を配りに行くと、高層マンションですけど、エレベーターを降りたらエレー
ベータの前に利用者が倒れていた。
びっくりして家の中に入って行くとヘルパーさん二人が家の中を掃除していた、誰も気付かない
で、うちの組合員がすぐ連絡して救急車を呼んで事なきを得た。
「配彩やんばる」では、弁当配りに行ったら前の日の新聞が新聞受けにあった。
そのおばぁちゃんは話好きで、新聞は隅からすみまで目を通している方で新聞受けに昨日からの新聞
が溜まっていて、おかしいと云ってお嫁さんに連絡をとったら家には来ていないのでそっちにいる
はずだ。
いない! すぐに市役所に連絡したらちょうど連休の時で、市役所に連絡してもいない。
大変だと言って地域に連絡とって、ボランティァで2,000名ぐらい参加して捜索を行ったが見つから
ない。そして、連休が終わった7日の日に 消防団の人が見つけてくれました。
おばぁちゃんの裏に畑があって、傾斜になって家との間に側溝があるんです。
その側溝にしゃがみ込んだ姿で亡くなっていたという。
多分斜面に足をとられ転げ落ちたんで
しょう。
草が生い茂ってわからないんです。で、そのときに家族から感謝されたのは役所を通じて、
きれいな体のままで旅立たせることが出来ましてありがとうございました、という感謝をもらった。
沖縄は大変暑いです。
刻々と体が腐って行くんですね。ところがいち早く気付いて、
その手立てをとったと言う事で、綺麗な体のままで逝かせることが出来たと言う事で大変喜ばれた
事例もある。
こういう事やっていくと様々なことが事例として遭遇します。
そこにきちっと冷静に対処して行くことが必要ですし、毎日の安否確認をするということが
徹底されているからこそ、そういう事が出来る。私たちの強みというのはそこなんです。
安否確認、利用者の健康に見合ったカロリー計算、それから地元の食材を扱おうという三原則を
追求してきました。
カロリー計算では、平良先生から激怒されて、味が薄いでしょう高齢協のやつは、塩分薄目で、
塩分が薄いからどうだとかよくクレームがくるわけですよ、味が薄いと。
理事会の席だったかな、話し合うときに、醤油かければいいと、塩を自分でかけてといえと言ったら、
それはまかりならん私たちがやった配食は何もならんじゃないかとお叱りを受けて、案内チラシ
を出すようにしました。私たちの配食はこういうことでやっています、だから塩分控えめです。
そうしたらそういった人が、おたくの配彩を食べたお陰で糖尿が良くなったとか、私は良くなり
ませんでした(笑い)。
そいうことで返事が来たりすることで、まさに配食=(イコール)命に繋がることだと確信を持つ
ようになったのもこの頃です。
【これからの高齢協】

今、各事業所が生活支援ということでやっている、那覇が時々草刈りと言うことをやっている。
一番今凄いのは旧盆、正月のおせち、オードブルですよね。最初は反対されたんです、おせちは
出来ない。
ところが今年の8月の盆は事業高というと100万以上ですよね、全事業でそれぐらい厨房が不便に
なっている。そこまで発展してきたわけですから。
今後、私たちが目指さなければならなくちゃいけないのは、理事長から提案がありましたけれども
地域と市民が必要とする事業を仕事として成り立たせていくことが大事である。
今、全国の自治体が躍起になってやっているのは生活困窮者といいますか、困窮者支援が一つの
課題になっている。いまでは生活困窮者の子供たちの学習支援と言うこともやっている。
沖縄では先ほどの理事長が言っていました衆議員の仲里先生、この方の後援会事務局長やってい
る松田さんといって、幸地理事長は知っておられるんですけど、高教組の出身なんですね。労協セン
ター事業団「那覇事業所」津波古所長の旦那さんが沖教組の退職者組合の専務をやっておられる。
この人たちと結びつくことが出来て本当の意味での学習支援が出来る。
しかも、それを高齢者がやっているという図式が出来るんです。
今後、各自治体行動、秋の自治体行動、高齢協と労協センター事業団(ワーカーズコープ)が
一体となって一緒にやっていくわけですけど、その一つの目玉に困窮者支援の学習支援と言うことを
盛り込んでいったらどうだろう、そこに高教組の退職者組合の人達と一体となってやる。その話しが
きちっと出来たら高教組の名前を出して頂いて、それを全自治体にアピールしていく、そこを言って
いくことが大事である。
高齢協は今、多分1,500世帯で結びついていますから、その1500世帯、全体に対して様々なアンケート
調査をやりたい。その事を基にして、今後の高齢協運動、社会運動に私たちが貢献して行くことを創り
上げていきたい。これからの10年、20年のわれわれ高齢者協同組合に課された使命だとい
うふうに私自身は思っている。
そして今日も本部の組合員、就労組合員が参加して頂いておりますけど、この20年本当の意味で高齢協
を支えて来てくれたのは、今、現在就労している組合員の皆さん方です。
本当にそのことについて感謝申し上げたい。
組合員あっての高齢者協同組合ですから、これからもますます自立的、自発的に活動して頂いて、
これから先の高齢協の20周年を創って頂くようお願いして終わります。
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